Ciaooo!! (チャオォォ!!)スタッフのしんちゃんです!

今回はなんと、写真付きのレポート記事です!以前のレポ(福杓子祭@出雲大社のレポと「幸魂奇魂守給幸給」の謎解き)と比べれば、なんと進歩したのだろうか、と胸が熱くなります。

 

(ドキがムネムネ〜!って懐かしいですね。未だ続いていたとは恐れ入ります)

 

それで、今回は祓いの祭事に参加してきました。

大祓は6月と12月、年2回行なわれ、中でも6月30日に執り行われる大祓は夏越の祓と呼んでいます。 日々の生活の中で身につく罪穢や過ちを、大祓詞となえた後、茅の輪をくぐり、身を祓い清め新たなる気持ちで過ごせる事を祈ります。 また人形の形代で身体をなで、息を吹きかけて穢れを移したものや、車の形代で車をなでて交通安全を祈ったものを納めていただき、お清めをして無病息災を祈念します。

出雲観光ガイドより引用

残念ながら祭事当日ではなく、その前から置いてある「茅の輪」をくぐってきました。「祓ひ給へ清め給へ(はらいたまえ きよめたまえ)」と唱えながら、輪を三回くぐると清められるというものです。

どうしよう。写真があると、特に語ることがないです。写真がなければ、言語で表現しようと頑張るのですが、今回は特段新しく感じたこともなく…三かいくぐって、由来の看板を見て、ちょっと勉強になったな、という感想でした。

ですので、ここからは全く関係ないことについて話していこうと思います。

 

題して

アラン『幸福論』コーナー

です!!

(アランさんとはチャーミングなオジサマです!! そして『幸福論』とは、かなり現実的に「幸福の実践」を論じている本です。読んで「幸福ってなんだろう?」と意味論の迷宮へと誘うのではなく、「いま幸福である」状態に誘う実践書です。古くから読まれており、現代的な知見から見ても色褪せることない世界的な名著なのです!!)

今回はこの言葉から始めたいと思います。

 

「他人に満足することは、なんとむずかしいことだろう!」

前回(福杓子祭@出雲大社のレポと「幸魂奇魂守給幸給」の謎解き)は、「ああ、結構なおしめりだ」を紹介しました。まだ読んでいない方は一読を! 今回はその続きです。(もちろんこの記事だけでも楽しめるようにデザインしますが!)

もし蓄音機がいきなりあなたに向かって悪口をどなりだしたら、あなたは笑いだしてしまうだろう。

蓄音機は古いですね(笑)。スマホに置き換えてみます。たとえば、iPhoneの「Siri」からいきなり「バカ!」と言われたら、笑っちゃうと思います。

でも悪口を発するのが、人間の顔の場合だと、言われた側は想像力を巡らせます。その巡らせた先に戦争が待ち構えているとわかっていながら、しかし巡らせずにはいられなくなってしまうことがあります。

とはいっても、これは「怒り」を知ることで回避することができます。

人はまず肉体的に怒ります。そしてその怒りにぴったりする無数の記憶を引っ張り出します。それらがぴったりくればくるほど、怒りの証拠となり、もっともらしいことばをつくりだし、それが上手な俳優のように、自分自身の心を動かすのです。

怒りの言葉は、肉体から適当に発明されるのです。

人の心を傷つけたり、取り返しのつかないことを言いたいのではなく、肉体の怒りに出口を与えるために、本能的に発明されたものだと考えることです。そうすると誰かの怒りは蓄音機から、Siriから聞こえる音と変わらないことになります。

誰かがロシア語で悪口を言ったとしても、なんにも分からないように。日本語で言われても、同じように何を言っているのかわからないでいればいいのです。悪口には理解すべきものはなにもないということを、理解すること。相手はただ自分の肉体的な憤りを、発散するために、悪口を発明しているにすぎないのですから。つまり、

「おお、結構なおしめりだ」

と、いきなり降り出した雨を眺めるように眺めればいいということです。

 

雨はてるてる坊主に祈るしかないが、人は微笑みで解きほぐれる

雨の場合は、てるてる坊主に祈るくらいしか出来ることはありません。もし野外でのバーベキューの予定があったなら、「ああ、結構なおしめりだ」と皆でつぶやいて、屋内でのしゃぶしゃぶ食べ放題に変更です。

人の場合は、両方の天気が悪くなるならば、一気に「土砂降り」へと変わります。雲のようにあっちこっちへ行く二つの気分のうち、一方の気分がまず微笑むこと。そうすれば二つの天気はたちまち良くなります。

最後に、アランさんの言葉を引用して終わりたいと思います。

悪く言われたり、悪く思われたりすることのない人間など、ありはしない。よく言われたり、よく思われたりすることのない人間も、ありはしない。しかも人間の本性というものは、人の気を悪くすることをすこしも恐れないようにできている。勇気をあたえる興奮というものは、きわめて臆病に近いものだからだ。

そして、人が不愉快であるという感情をいだくと、たちまち事態をいっそう悪くする。しかし、これらの事がらを理解したからには、けっしてそんな羽目におちいらないようにするのが、あなたのつとめだ。次のような経験は意外な経験であるから、あなたもぜひ一度やってみるといい。

つまり、自分の気分を支配するより、他人の気分を支配するほうがずっと容易であるという経験である。そしてまた、話し相手の気分を用心深くとりあつかう者は、そうすることで自分自身の気分に対する医者となるという経験である。

思うに、会話においては、ダンスにおけると同様、めいめいが他人の鏡だからだ。

アラン『幸福論』白井健三郎訳 より引用

POSTED BY STAFF しん
2018/6/13 Today is Wednesday!!

(以上の記事は、STAFFしんの偏った見方によって構成されていますので、もし不快な点、間違った点があればお詫び申し上げます。もしそのように感じられた方がいましたら、「ああ、結構なおしめりだ」(アラン)と思っていただけたら幸いです(そうして僕にその微笑が伝わり、周りのひとにも伝わり、世界は平和になるのです。「幸福とは平和からうまれる果実ではない。幸福とは、平和そのものなのだ」(アラン)なのです))