こんにちは!!スタッフのしんちゃんです!!

明後日から梅雨の時期である、6月に突入します!! ……が、3月に書こうと思っていたレポートを忘れていたことを思い出し、いま焦燥感に駆られつつ筆を握って(キーボードを叩いて)います。

テーマは出雲大社の福杓子祭です!!

 

3ヶ月前のことだけど、撮った写真を見れば、細かいところまで思い出せるでしょ!! と意気揚々と、パソコンのフォルダを漁りました。そう、漁りました漁ったのです。

勘のいい方は既に気づいているでしょうが、見当たらないのです。写真が。

ということで、過去に形成された分子結合としての映像を辿りつつ、巧みな言葉によって福杓子祭を、この、サイト上に、再現してみたいと思います!! 壮大な試みでしょう?

 

10,800秒のお清めをして…

あの日は、早朝 6:00 にゲストハウスを出発しました。やや湿った朝もやの香りを感じとりながら、「春だな―」と、毎年いつも思うように、この日も同じような朝を迎えました。どこか懐かしく、それでいて新しい一日の始まりです。

 

ああ、そうだ。このときは花粉がすごかったのです。

歩きながら、5分に一度のペースでくしゃみをしていたと思います。300秒に一度のペースです。そうすると出雲大社に着くまでに、大量のくしゃみを生産しているような気がしますが、数字にすると36回。意外と少ないことに気づきます。

嫌なことは過剰に記憶される脳の特質がよくわかります。

本物の不幸もかなりあることはある。そうだからといって、人々が一種の想像力のとりことなって、そのために不幸をいっそう大きくしていることに変わりない。(中略)

小雨が降っていたとする。あなたは表に出たら、傘を広げる。それでじゅうぶんだ。「またいやな雨だ!」などと言ったところで、なんの役に立とう。雨のしずくも、雲も、風も、どうなるわけでもない。

「ああ、結構なおしめりだ」

と、なぜ言わないのか。もちろん、こうあなたが言うのを私が聞いたからといって、雨のしずくがどうなるわけでもない。それは事実だ。しかし、そのほうがあなたにとってよいことだろう。あなたのからだ全体がふるいたち、本当に暖まることだろう。ほんのちょっとした喜びの衝動でも、こういう効果があるのだ。雨にあたっても風邪をひかないためには、こういうふうにすべきである。(中略)

人間のことも雨同様にみなすがいい。それは容易なことではない、とあなたは言うかもしれない。ところが、容易なのだ。雨に対してよりもずっと容易なのだ。なぜなら、あなたが微笑したところで雨に対してなんということもないが、人々に対しては大いに役立つからだ。そして、たんに微笑のまねをしただけでも、もう人々の悲しみや悩みを少なくする。

(もしそんな脳の特質に疲れたら、最高にチャーミングなアラン先生の言葉を思い出しましょう!! 『幸福論』:「雨の中」からの引用です!! そして僕は花粉症でくしゃみをしながら、ヒッヒッヒと微笑むのです)

 

……っと、話が逸れましたね。それでこれからのこと、これまでのことを考えてながら、出雲大社まで歩いていったのでした。陽の光に照らされ、お清めをしながら、祭りのはじまりを予感していたのです。

(あっちなみに、上の写真はスマホに残っていた写真です!!保育園?のような施設にあるバスに日本財団と描かれていたのを見て、なんとなく示唆的だなーと思ってパシャリとした一枚です)

 

暗い雲の狭間から光が僕らを照らしていたあの日

福杓子祭は、出雲大社本殿の奥、素鵞社(そがのやしろ)で行われました。

神職による祓詞の奏上→参列者全員へのお祓い→祭主の祝詞奏上→参列者全員で神語「幸魂奇魂守給幸給」奏上→拝礼→代表者玉串拝礼

という流れでした。

 

実は、神社の祭事に参加したのは、夏祭りなど以外生まれて初めてでした。(「実は」ってその後の言葉が重要だよ!というサインですが、強調されていたり、何度も連呼されると「わたしにかまってー!!」という副声音が聞こえてきますよね。今回はなんでもないことを最後まで読んでほしいので、副声音の意味合いを強調しています。「構って」ほしいんです)

 

神さまに関わるお祭りと聞くと、ぼくの印象では、西洋にあるオルガンピアノであったり、聖歌であったりと、とても神々しい空間が生まれるイメージがあったんです。しかし実際のお祭りは、いわゆる西洋的な神々しさはそこにありませんでした。

勝手な妄想ではありますが、出雲大社の近くにある歴史博物館に行ったときに、想像したような古代の人々の暮らし、信仰、儀式がまるでそのまま現代に受け継がれているような、そんな気がしたのです。だからこそ、はるか昔からの人類の大きな流れを感じられましたし、目には見えないけれども、たしかに大きななにかと繋がるような感覚がしました。

そこに西洋的な神々しさはなく、古事記に出てくるような、とても人間らしい、完全無欠どころか、欠点だらけの神さまの姿が浮かび上がってくるような……。

 

八百万の神々

 

アニミズムですね。どのようなものにも神さまが宿っているという考え方。この祭事を通して、昔の日本人にとって、神さまとはすごく親しい存在だったのだと感じました。どこからか見下ろしているのではなくて、隣りにいて、見守ってくれている。自分の生活を助けてくれている。ときには、怒って自然災害が起きたりしている。そんな世界観です。

 

幸魂奇魂守給幸給

個人的に「これいい!」と、論理の隙間を縫って、感性に響いたのが、「幸魂奇魂守給幸給」という神語です。(他のサイトにはこれは真言(マントラ)であるという記述があったりしましたが、わかりません。というより、神語と真言の違いがわかりません。どのようなご利益のある言葉なんでしょうね)(あ、ちなみに、ちなみにですが、いま行動経済学者であるダニエル・カーネマンさんの『ファスト&スロー』を読んでいるのですが、その言葉を借りればこう表現できます。システム2の隙間を縫って、システム1に届いた、と。ああ、いやこの表現も適切でない可能性が。システム1がまず感知をして、システム2で解釈などをするのだと思いますが、意味のわからないことって解釈できませんよね。だからその音がそのままシステム1で処理されたのでしょう。ここからどんなサブリミナルが広がるのかはわかりません。調べてみたいですね。研究してみたいですね。ワクワクです。しかしその場合は、どんなふうに実験をしてみればいいのでしょうか。ああ、過去のサブリミナルについの論文を漁ってみてもいいですね。とはいえ、いまは実験での立証から、理論的整合性へと証明のパラダイムがシフトしていますから、どんなふうに立証すればいいのでしょうか。理論的整合性ってどんなふうに証明するのでしょうね。数学でしょうか、数学ですね。ん〜面白そう!!)

幸魂奇魂守給幸給は、「さきみたま くしみたま まもりたまひ さきはえたまえ」と読むようです。実は祭事の最中は、よく聞き取れなくて、うぇぁ〜と適当に合わせてました。(シーッ!祭司さんには秘密ですよ!! リズムを合わせ、ボリュームを下げてましたから、バレていませんとも)

だからこの読み方がわかったのは、帰ったあと、現代の神とも言えるお方に尋ねたからです。

そう、Google先生です。(わたくしめはGoogle先生の忠実な奴隷でございます)(クーデターを起こすまでの、お決まり文句ですね!フラグです!)

 

この神語を現代的に訳せば「幸魂奇魂、まもってください、幸を与えてください」となるでしょうか(信じないでください。少ない知識から絞り出しています)

幸魂奇魂、とは「大己貴神(大国主大神)」が、「どうしよう自分一人で国を運営するのは大変だよ、だれか助けてくれないかな」といったところ、突然光が射してきてナニカが現れてきます。そのナニカが幸魂奇魂なのです。

 

そして幸魂奇魂はこういいます。

「ぼくがいたから、君は国造りという大事業を成し遂げられたんだよ」

と。

 

「おお、いきなり現れて、傲慢なやつ!」

と思いかけましたが、日本書紀によれば「幸魂奇魂」は、君(大己貴神)の一部だよ、と言っているんです。

ということは、このエピソードは自分自身の一部が、自分に対して「僕っていうすごい存在が君の中にいるんだよ!」と語りかけている、、、つまり自分で自分に自信を与える、セルフトークのシーンなんです!!(ドーンッ)

 

だから、この、神語「幸魂奇魂守給幸給」を唱えるということは、自分自身の中に「幸を与え、収穫をもたらし、奇跡によって、幸を与える存在」がいることを再確認する儀式 になるのです!! (ちなみに気功的にいえば、「結界」になるんでしょうか。詳しい人教えてください)

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございました

さて、ここまで全文字を残らずお読みいただいた方は、3,592文字分の情報を処理していることになります。さらに個人差はありますが、そこから想起される記憶が膨大にあるでしょうし、すごい脳トレになったのではないでしょうか!? (脳トレとは日常的に「必要」からするもので、特別な訓練ではないと、しみじみ思います)(終わり方が唐突なのは、ひとつの謎を解決して、やりきった〜!とクールダウンしてしまったためです。いい仕事をした!!)

とはいえ、おそらく読み飛ばしている文章があると思います。人によっては3,000文字くらい。もしよかったら、気が向いたときに読み返してみてください。そして僕の残骸からなにかを得ていただければ嬉しいと思います。

POSTED BY STAFF しん
2018/5/31 Today is Thursday!!

(以上の記事は、STAFFしんの偏った見方によって構成されていますので、もし不快な点、間違った点があればお詫び申し上げます。もしそのように感じられた方がいましたら、「ああ、結構なおしめりだ」(アラン)と思っていただけたら幸いです(そうして僕にその微笑が伝わり、周りのひとにも伝わり、世界は平和になるのです。「幸福とは平和からうまれる果実ではない。幸福とは、平和そのものなのだ」(アラン)なのです)